スクールカウンセラーだより from 一心塾

スクールカウンセラーとして勤務している学校で発行している便りです。

いじめのこと

 いじめによる自殺という痛ましい事件が日本を揺るがしています。自殺に至らないまでも、いじめを受けたという辛い体験は、心の傷となってその人の人生に暗い影を落としてしまいます。人を信じられなくなってしまうのです。いじめの多くは、軽はずみで行われてしまうのですが、重大な暴力であることを忘れてはなりません。

 またいじめは学校だけで起こるわけではありません。職場や家庭で、強い立場の者が弱い立場の者へ、頻繁に言葉の暴力が行われています。これも立派ないじめです。まず大人がいじめを止めない限り、子どもだけを責めることはできないでしょう。

子どものいじめは最初ストレス発散のはけ口として起こることが多いようです。また自分を相手より優位であると印象付ける無意識的な目的もあるでしょう。最初のうち被害者は不特定で、いじめる側も単独であることが多いようです。この場合発覚も早く、事情を聞く、謝らせるなどの一般的な対応で収まります。

しかし被害者が誰にも相談せず、ふざけ遊びという認識でただ耐えている場合、発覚が遅れてしまいます。次第にいじめは加害者のとって強い刺激を得られる快楽となり、ゲーム感覚で、しばしばグループで行われるようになります。このときは被害者も固定化してきます。いじめグループに属するメンバー自身、相談相手のいない、ストレスをためやすいタイプであると予想され、いじめをやめることは逆にいじめ被害者になる不安を拭えないため、いじめをやめられないという状況もよく見受けます。

いじめ対策は早期発見が鍵となります。そのためには被害者が早く親や教師に訴える必要があります。日ごろから、嫌なことをされたり言われたりしたらすぐに親か先生に言うように指導がなされるべきでしょう。そして子どもからいじめの報告を受けたときの話の聞き方を心得ていないと、子どもは「やっぱり言うんじゃなかった」とさらに不信感を募らせ、結果的にいじめが続いてしまうことになりかねません。

一番大事なポイントは、「よく勇気を出して話してくれたね」とほめることです。次にやさしい口調で状況を丁寧に尋ねます。3つ目にどんなふうに対処すればよいかを子どもとともに考えます。なるべく子どもの意に沿うように対処しますが、時にはどうしても子どもを説得しなくてはならないこともでてきます。例えば「相手の子に対し大人からは何も言って欲しくない」と子どもが主張することがよくあります。子どもも大人も納得の行く対処法を導き出して行くことが重要です。これは子どもにとっても重要な人間関係の学習の機会です。このようなやり取りを通じて、子どもは人を信頼できるようにもなってきます。

子どもは「親に迷惑をかけてはいけない」とか「先生に言っても何も解決してくれない」と勝手に思い込んでいることがよくあります。この思い込みがいじめの発見を遅らせる一番の原因と言えるでしょう。普段から信頼関係を作っておくことがもっとも大事です。いじめなどの危機に至ったときだけ「さあ話せ」では、子どもとしても話しようがないのです。

身近な大人と信頼関係で結ばれているとき、子どもは心理的に守られているという実感を持ちます。これがいじめ対策の根幹であると私は考えます。

 

 

 

 

子どもは欲求やストレスを表に出しながら生きている。それが子どもの生きる術なのである。その術を否定してしまうと、こどもはこころの葛藤を強くしてしまう。たとえば自分では守れないことを他人に対しては非常に強い態度で強要したりする。子どもがいじめなどのやり方で、抱えているストレスを表面化させたなら、まずストレスを抱えていることを理解してやる必要がある。その段階を経ないと子どもは自分の行動を客観視できないのである。

子どもたちがともに生活している学校現場でいじめをゼロにすることはおそらく不可能だろう。むしろいじめを子どもの心のサインとして受け止め、その子をケアするきっかけにできればと思う。重要なのは、いじめられた方の子が早期に誰かに伝えることなのである。

 

困らせる人、困る人

赤ちゃんは、お母さんの注意を引くために必死に泣きます。もちろん赤ちゃんにそんな目的意識があるわけではありませんが、生きるためには泣かなければならないことを、生まれつきからだで知っているのです。

“生き抜くため”のこの能力は、10歳くらいまでは強く出てくるようです。例えば弟や妹が生まれて、お母さんの注意が新しい赤ちゃんに移りがちになると、何だかやたら目立つことをし始めたり、心配かけさせたり、忙しいお母さんをよけいに忙しくさせるものです。

でもこの生き抜くための能力は、よく裏目に出ます。注目を引くために家族を困らせて、叱られる結果に終わるからです。子どもは意識の上では叱られたくはないのですが、悲しいことに本能では、無視されるより叱られる方を選んでしまいます。そして「もっと困らせる→もっと叱られる、嫌われる」の悪循環に陥ってしまうのです。

さらに厄介なことに、子どもはこの「困らせ方」を性格の中に織り込んでしまいます。人間にとって“生き抜くこと”はそのまま“注目されること”なのですね。学校での人間関係、さらにもっと大人になってからの人間関係もこの「困らせ方」が随所に出てきます。実は本人もその性格には大いに困っているのです。長年馴染んだパターンは簡単に変えられそうもないのですが、カウンセリングで変わることもあります。

「困らせ方」にはいろいろなパターンがありますが、大きく分けると「迷惑かけタイプ」と「心配させタイプ」です。

迷惑かけタイプは、「買ってー」などと駄々をこねる、ちょろちょろする、つきまとう、兄弟や友だちにちょっかいを出して困らせる、ゲームやテレビを止めない、暴れる、片付けない、手伝わない、うそをつく、兄弟や他者の悪事を暴きたがる、などです。

心配させタイプは、身体の症状を訴える、世話をしたがる、自分を表現しない、不安そうにする、遠慮する、などです。

もともと困らせることを目的としてこのような態度を取るわけですから、親や周囲の人たちは、この態度に「振り回される」感じを持ちます。だから相手が心配させタイプであっても何となくイライラさせられてしまいます。

そして解決方法もここに見出すことができます。つまり相手が困らせにかかるなら、こちらは「困らない」ための方策をあらかじめ考えておくのです。一つだけ単純な例を挙げましょう。相手がいつも「買ってー」と駄々をこねるのであれば、店に入る前に「お母さんについてきてくれたから何でも好きなものを買っていいよ。ただし150円までだよ。」と言います。守れたら店を出たとき褒めてあげます。相手を傷つけず、認め、そして褒めることができる方策を見つけられれば、相手はあなたに対する態度を改めるでしょう。その方策についてはカウンセリングの中でいろいろ考えていきます。

誰に対しても態度を改めるには、本人の気づきが必要です。しかし気づかせようと思ってズバっと指摘するのは勧められません。やはりカウンセリングしながら少しずつ自分で気づくのが一番でしょう。自分の性格でお困りの方、家族や友だちの態度にお困りの方、どうぞカウンセリングにいらしてください。

心の土台

 夏の高校野球すごかったですね。テレビに釘付けになりました。斎藤投手の制球とスピードには本当に唸らされました。解説によると相当下半身を鍛え込んだのだとか。そういえばソフトバンクの和田投手も下半身をかなり鍛えた時期があったと聞いています。足腰の安定、つまり土台の安定が無くてはいい仕事はできないということを物語っていますね。 では心の土台って何だろう、とつい考えてしまうのが心理屋の性というものです。

 心というのは人間関係抜きに考えることができません。つまり人間関係の土台が心の土台なのです。人を信用できないときは心が弱くなります。皆さんもそんな経験があるでしょう。一番信頼している人が何となく冷たかったりすると、きっと人間を誰も信じられなくなって、心もとても衰弱し、固く内側にこもらざるを得なくなるでしょう。そんな人を最近はたくさん見かけます。その人は誰も信用しないし、誰からも信用されない。こんな寂しいことがあるでしょうか。

どうしてそうなってしまうのでしょうか。それは自立と深い関係があります。自立できないうちは誰かに頼らなければなりません。ところが頼られる方も自立できていなければ、どこかで頼られることが辛くなって信用を裏切るようなことになるでしょう。これが不幸の始まりです。できれば頼りがいのある人に頼ったらいいですね。しかしきちんと自立している人は甘えをあまり許さない雰囲気を持つことがあります。頼りたい人にとっては少し冷たく、またはきつく感じるかもしれません。また頼れる人と親しくなるには自分自身もある程度土台がしっかりしている必要があります。そうでなければ自立している人に対して近寄りがたい感じを持つでしょうから。

 どうしたらしっかりした土台を作れるでしょう。自分でできることは自分でする癖をつけることです。わからないときは最小限を聞いて自分でやります。これが信用を得る第一歩です。信用される人しか信用しあえる関係は築けないのです。

 

友人関係の悩み

 友人関係で悩む人は多いと思います。クラスの中に話の合う人が数人いれば楽しい学校生活を送ることができますが、あまり趣味の合う人がいないと何となくクラスに居場所がない感じになります。一人ぼっちでいると人間は気が弱くなるもので、級友同士から悪口を言われているのではないかと被害妄想的になったりします。一人ぼっちにはならないまでも話が合わなくてイライラすることもあるでしょう。

 インターネットの世界ではありとあらゆる趣味のフォーラムが存在します。話の合う仲間を探している人、自分の居場所を探している人がパソコンの裏側に大勢いることがわかります。しかしネットの世界で仮の満足を得たとしても、本当の人間関係の力を身につけることはできません。多少つらい思いをしてでも、私たちは生の人間関係の中に身を置きながら自分の心を鍛えていかなければなりません。それは勉強やスポーツで頭や体を鍛えるのとまったく同じことと考えて良いでしょう。

 スポーツで鍛えるといえば昔はとにかく“根性”でした。今はずいぶん科学的です。ヨガなどもよく取り入れられます。では心を科学的に鍛えるにはどうすればいいのでしょう。

 まず大事なのは悩みにおぼれない技術です。例えば「友だちがいない」という悩みがあるとき、それにどっぷりつかり過ぎると溺れた人ように余裕を失い、しまいには自分が消えてなくなりたいような気分になります。溺れないためには誰かに聞いてもらうことが何よりも有効です。話してアドバイスをもらうことが目的ではありません。話すことで心が悩みに対して間がおけるようになるのです。言い方を変えると、悩みや問題を客観視できるようになることが何よりも大事な技術です。話す以外では、図に表す、文章に書くなどもとても有効です。

 少し間がおけるようになったら、今度はその悩みや問題に対してきちんと向き合うこと。これが2番目の技術です。どっぷりつかっていては向き合うこともできないのですが、今なら向き合えます。しかし向き合おうとするとそれはとても辛くて、できれば目を背けたいようなことかもしれません。ゲームやテレビ、漫画で一時的に忘れていた方がストレス解消になると思うかもしれません。しかし辛くても向き合わなければ前には進めないのです。これも勉強やスポーツと同じです。何とか向き合おうとすれば、自分なりの工夫や自分なりの頑張りができるものです。それによって心が鍛えられます。心が強くなれば人間関係や居場所の問題も自然に解消するでしょう。

 もしあなたが人の悩みに応えてあげたいタイプの人なら、徹底して聴くこと、安易にアドバイスしないこと、相手が向き合うべき問題なのにあなたが代わりに向き合わないことを守ってください。悩みを持つこと、他人の悩む心に寄り添うこと、どちらも心を鍛える手段です。

大事にすること、されること

魔女の宅急便』の主人公キキはあるとき魔法のホウキに乗れなくなってしまいます。一生懸命乗り方を思い出そう焦りますが、うまくいきません。小さい頃から何でもなくできていたことなのに、、、

 十代の頃は同じようなことがよく起こります。友だちと遊んだりおしゃべりすることが楽しくてしょうがなかったのに、急に話しかけ方がわからなくなったりします。生きることの意味なんて考えなくても普通に楽しくやっていたのに、何で生きなきゃならないのかわからなくなったりします。

 誰かに尋ねると、もっともらしい理由は返って来て、頭では理解できるけど前のような感覚にスッと戻るということはありません。どうかしてしまった自分にイライラするばかりです。

 キキは人間の男の子の助けを借りて必死にホウキに乗る感覚を取り戻そうとします。身体で覚えた感覚はどうやら身体で取り戻すしかないようです。ちょうど脳卒中や事故で麻痺した身体をリハビリによって感覚を取り戻すようなものなのでしょう。

 身体の感覚はわかりやすいのですが、「普通に何でもなく生きる」というような心の感覚は何をどうがんばれば取り戻せるのでしょう。

 いま私が提案できるのは、「大事にする」ことです。私は茶道を習っているときに、お点前や歩き方などの動作を大事に丁寧にすることはもちろん、茶碗などの道具、花や庭の手入れなど手や目に触れるものすべてを大事に扱うことを教わりました。こちらが大事にすることで、道具も草花も私のことを大事に思ってくれているのではないかと感じることができます。

 もし自分が誰かから大事にされていないと感じているなら、自分の方からその人を大事にするさりげないやり方を実践してみてはいかがでしょう。あいさつや笑顔から始めてみてはいかがでしょう。きっと自然の生き物や草花のように、普通に何でもなく生きるという当たり前の感覚が甦ってくると思います。

将来の夢は?・・・と聞かれても

 自分の中に何となく存在している将来への想いを整理してまとめ上げて、最終的に「私はこれになりたい」と言うことは、非常に大変なことです。もちろん早いうちから「自分は(例えば)看護師になるんだ」と堅く決めている人もいるでしょう。そういう人は迷いが少なく、勉強にも集中できるかもしれません。しかし大多数の人は何になって良いのかわからなくて、迷ったり悩んだりすることにエネルギーを使って、何となくだらだらしてしまうものです。「何になりたいかわからないけど、とりあえず勉強しておこう」という気持ちにはなかなかなれないのが普通です。心はそう便利にはできていないのです。

 しかし迷ったり悩んだりするのは、何か心の中に、明確ではないけど、将来の自分像に対する期待があるからではないでしょうか。それをどうやって明確にしていったらいいのでしょう。私は、しっかり迷ったり悩んだりする以外に方法はないと思います。でもそのときに傍にいて、焦らせることなく、意見を押しつけることなく、聴いてくれる人がいるとずいぶん考えが進むものです。

 まだまとまっていない断片的な想いを、そのまま受け止めてあげることで、次第に話し手の心はまとまってきます。

 大人は子どもに対して答えだけを求め過ぎる傾向があります。「何になりたいの?」「ああ、それならあの高校に行けばいいわ。頑張りなさい」これでは何の援助にもなりません。本当の援助は“傍にいる”ことだけで良いのだと思います。

学習障害(LD)について

学習障害(LD)」という言葉を聞いたことがあるでしょうか。最近、教育界ではよく話題に上ります。小学校低学年で発見されることが多いのですが、例えば人に比べて計算が極端に苦手であるとか、音読がひどくたどたどしい、記憶が苦手であるなど、普通の指導ではうまく教えられない状態をいいます。知能が低いわけではなく、ある特定のことだけが極端に苦手なのです。ひとつの個性と考えて良いかもしれません。

しかし放っておくといくつかの教科に対して苦手意識が生じ、場合によっては勉強全体、悪くすれば学校というところに嫌悪感を覚えるようになります。

ですから、お子さんが何につまずいているのか、何に苦手意識を持っているのかを学校と家庭の両方でしっかり把握する必要があります。その上で対策を立てなければなりません。学校だけでは指導しきれないことも多いですから、家庭と学校がよく連絡を取り合ってうまい方法を考えることが大事です。

「しっかり勉強しなさい」と上から命令するだけでは、苦手意識や勉強に対する抵抗感が増すだけです。それでは教育的態度とはとても言えません。子どもはわかるようになりたいと思っています。でもどうやっていいのか自分ではわかりません。他の友だちはすらすらわかるのに、どうして自分だけわからないのだろうかと漠然と悩みますが、そのことを口に出すことはありません。

優しい態度で、さりげなくわかるようにしてあげられるなら、子どもが勉強に対して嫌な感じを持つことはないでしょう。その工夫は大人がしなければなりません。学校において勉強がつまらなければ学校は退屈で反抗せざるを得ない場になります。LDと不登校の関係も、最近になって研究されるようになりました。もしお子さんがLDではないかと思われたら、是非早めにカウンセラーまでご相談下さい。